ゴミの捨て方から見えること

このブログではできるだけモザンビークの良い面にスポットを当てて書いている。

ただやはりもちろん、何事にも表裏があるわけで、負の部分を感じることも大いにある。

 

 

この間スーパーで買い物をしていたら、ボロボロの薄汚れた服を着た少女が、売り場でじーっとしている。

明らかに何日もシャワーを浴びることができていなくて、服もボロボロで汚れていて、その場から浮いていた。

どうやら大人の目を盗んで商品から何かを盗ろうとしているようだった。

やせ細った身体で、一人ぼっちだった。自分が今から悪事を働くことを知り、すごく怯えていた。

 

この少女が特別なわけではなく、所謂ストリートチルドレンと呼ばれる子たちはいつも街をウロウロしていて、物乞いをしている。

盗みを働く人もたくさんいる。

 

じゃあその子たちが私のところに来て、

「お腹が空いているんだ。お金を頂戴、パンを頂戴」と言ったら快く自分の懐からお金をあげるのか?と聞かれたら、

これまで心苦しいながらもあげないという選択をとってきた。

(一体それが正しいのか未だに答えは出ないまま。毎回ものすごい罪悪感に襲われる。)

 

 

(親が実際にいるのかいないのかわからないけど)もし両親がいたとしても、間違いなく貧困な家庭である。

もしその子たちに仕事があったとしたら、ゴミ拾いや売春くらいしかないんじゃないかな。

お金がない、

真っ当な仕事がない、

今日食べるものもない、

親や大人は当てにならない、

街では誰も何も恵んでくれない、

自分のすごく近く、手の届く距離に「死」が待っている。

 

となると、

生きるにはもう物を盗むしかない、というのが普通の人なら考える方法だと思う。

逆に言うと、きちんと善悪の判断がついて、良心に沿って物を盗らないという選択をすると飢えて死んでしまうのだ。

 

 

※泥棒が善とは言うつもりは全くないです!

でもホタルの墓のお兄ちゃんが、節子を守るために畑から芋を盗んだように、

それをしなかったら死んでしまう。

 

 

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街をうろつく浮浪者の人たちの中で一番心を痛める風景が、公衆ゴミ箱の中から何か食べ物はないかとゴミを漁り、手掴みで食べている様子を見るときである。

本当にどうしようもなくなるほど切ない光景の一つである。

 

 

そしてそういうことをモザンビークで暮らす人たちは知っている。

同じ土地で暮らす同志が、ゴミ箱を漁らないと生きていけないということや、

物を盗んで生きざるを得ないその事実に、間違いなく心を痛めている。

でも自分達にはその人たちを助けてあげることはできない。

 

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この間、ご飯を炊いた。

3〜4日ほど食べずに経過してしまったので捨てようと思ったら、相棒のアニータがそれを綺麗にプラ袋に包み、口をキュッと結んで持って帰りやすいようにゴミ箱に入れていた。

これは恵まれない人たちができるだけ持って帰りやすいようにして捨てるんだよ。と教えてくれる。

 

 

昨日、生きた鶏を市場に買いに行った。

生きた鶏をその場で絞めて、羽を取り、内臓をとってくれる。

それを家に持って帰ってきて部位に分けていく。

もも肉、レバー、手羽先、胸肉、あら骨、足、頭。

 

命が大事と知りつつも、足と頭はその見た目故、どうしても食べれない。

そしたらその捨てるはずの部分も、丁寧に洗って、ビニール袋に入れて、他のゴミが入らないようにキュッと口を閉じて、わかりやすいように捨てておく。

あぁ、そうだった。こういう部分も、彼らにとっては貴重な食料だろうなと思う。

 

 

国の仕組みが整っていないと、こうして弱者がゴミ箱を漁り、物を盗らざるをえなくなってしまう。

大きな流れの中で、弱者がそうしなくちゃいけない現実が生まれているのであって、

その部分だけを切り取って、善悪は言えないと思う。

 

 

近所を歩いて、

物を買って、

ご飯を作って、

生活する。

 

その中でもいろんなことが見えて来る。

 

大きな仕組みと普段の生活は、密につながっているんだとこういうところで実感する。

 

これを書いて、どうなるわけでもないのはわかっているけど、

ここに暮らして目にすること、感じること、一旦書いておいたほうがいいかなと思って書いてみる。