一つ自分に起きた出来事により、連鎖的にいろんなことを考えている。
ここ最近の他者とのやりとりで一番の自分のフラストレーションになることにスポットを当てると、
それはいつも何かを相手から貰おうとしていて、お皿を差し出す時に起きていた、ということに気づく。
例えば、 自分は気持ち良く差し出したと思っていたが、
実はそれに価する何かが相手から返ってくるであろうという期待の元に、そこにお皿をおいていたという事実。
それは感謝の言葉であったり、お金であったり、時と場合によるのだけれど、
(無意識にではあるけれど)他者とのやりとりの中で必ず何かが返ってくると思っていたのだ。
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さて翌日。
そのお皿に何か入っているかなと思い、お皿を引き取りにいく。
するとお皿は空っぽで、何も入っていない。
その時に自分はすごく大きな虚無感とフラストレーションを感じるということに気づいた。
人間は奪われ、与えられないということに恐怖を覚える動物だと思う。
何かを守ろうとして、奪われないように、また与えた分がきちんと自分の懐に戻ってくるように。
これだけの時間をかけたものには、これだけの対価が返ってくるはずだ。
これだけの努力を費やしたんだから、なにがしかの成果があるはずだ。
これだけのことをしてあげたんだから、感謝されるはずだ。
これだけの投資をしたんだからリターンがあるはずだ。
物やサービスには明確な値段が付いていて、それを得るにはいくらかかる。
誰かから何かをしてもらったらありがとうを言わないといけなくて、
誰かに何かをお願いするときには、お礼の品を添えておく。
1つあげたら1つ返ってきて、2つもらったら2つ返す。
そんなことを、名もない何かから当たり前のように教わってきた自分であったが、
その不思議な定説は、この地では(もしくはこの世の中全てでは)有効ではないと気づいた。
なぜならその返ってくるべきだと思っていたリターンは、自分が勝手に、この皿の中にこのようにして置かれてあるべきだと思い込んでいた幻想だから。
そしてその小さなお皿から目を上げ、周りを見渡すと、お皿の外にはたくさんの宝物が落ちている。
それに気づいたら、そんなもの、役目を果たさなくなるし、不要なものだと気づく。
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今日、すごくシンプルな言葉がやっててきた。
よくGIVEとTAKEに分けるならばGiver(与える人)になれ、ということが言われるけれど、
それをその言葉のまま鵜呑みにして、相手の前にお皿を置く自分の状態のままGiveすると、
犠牲感が生まれどんどん自分から何かがなくなっていく。
それは悲しいかな、自分が自分に課していたルールの通りで、
まるで井戸が枯れていくように、アンパンマンが自分の顔を誰かにあげてどんどんその顔がなくなっていくように、
自分からエネルギーやパッションや愛がどんどんなくなっていくような感じ。
しかし、不思議なことに気がつく。
気持ち良く差し出せるものを、気持ち良く差し出せる量だけ、他者にシェアしていく(決して無理しない。)
そして相手の元に渡ったそれは、もう自分の手元にはないのだから、その行方を追わない。
自分で作った小さな不恰好なお皿は置かないことにする。
相手がどう思うか、相手からどんな感謝の言葉をもらえるのか、そんなこと一切考えないように。
とにかくそれを徹底する。
すると自分から減っていった何かは、減るどころか、増えていることに気づく。
もしくはお皿の上ではないどこかにポンと置かれていたりもする。
自分が差し出せるものと、相手が差し出せるものは全く別物であるということに今更ながら気づく。
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こんなに限りなく広大で豊かな国で暮らし、暮らさせていただいている。
数字では決して表せないものが山ほどある。
人間の持つもの全部均等に平等になんて、論理上ではやれっこない。
それなのに独り占めして、取られないように必死に守って、
自分の取り分を主張して、その結果人から奪おうとしていたのかと、ハタと気付いている日です。
とてもいい気づきです。