モザンビーク生活1年を経て 学びの覚書

モザンビークで暮らし始め1年が過ぎた。

1年前の今日、ポルトガル語で「ありがとう」も「こんにちは」も「すいません」も話せず、

なんだったらモザンビークがどこに位置するのかも知らないまま(Googlemapでググる始末)、

さらに知らない割には事前に何も調べることなく、

無計画に、期待もせず、ただ流されるようにここに到着した日から、あっという間に1年。

 

 

他国で生活していると、楽しいことや、面白い刺激、新しく未知の世界やワクワクすることは放っておいても山のように起きる。

それらポジティブで楽しい出来事はそのままに任せておけばいい。

問題は、そうではないことの方とどう向き合うのか。負のエネルギーが強い出来事を、どう消化するかである。

 

 

 

ずっと前、とあることで悩んでいた時、

尊敬する友人に泣きついた時、彼がわたしにくれた言葉が今、ここにきてまた効いている。

“Let it be.” / “Let it go.”

 

 

 

 

(日本でももちろんそうだと思うが)他国で生活するにあたり、楽しいことが起きる反面、

思い通りにならないことや、信じられないこと、怒りさえ沸いてくることが度々出てくる。

そういう出来事が続くと、心の中で芽生えるモヤモヤとした気持ちをどう処理していいかわからずに、

正義を振りかざして、自分は決して間違えてない、自分には非がない、悪いのは全て相手や環境だと宣言したくなる。

 

しかしよく考えてみると、(そもそも自分でさえ自分自身をコントロールできないんだから)

他者が自分の当たり前と考えるままに動いてくれるわけがないし、

全ての事柄は自分のコントロール下にはない、ということである。

 

もちろん他者が自分との約束を守ってくれなかったり、裏切りとも取れるようなことに面すると、もちろん一入なく悲しい。

 

しかし、

時間・約束・ルールは全員が守り、

モラル・マナー・思いやりはみんな持つべきで、

何事にも一生懸命努力すべきで、

嘘をつかない・差別をしない・人を騙さないのは、当たり前。

 

そんなもの、世界中の人が一人残らず守るはずがないのである。

いや、そもそも自分自身もその全てを日々守り続けていれるかということ自体、綱渡り的だし怪しいものである。

つまり当たり前だと信じていた概念自体、霧のような掴めないものだったのだ。

 

 

 

ではどうするのか?

結局できることといえば、すごくシンプルで、

自分ができることやるべきことのみを、粛々とし続ける。

そしてその後はLet it beして、見返りを期待しない。ただそれだけ。

 

 

人種・国・文化・食べ物・気候・法律・常識が違う。

家族も食べ物も、ルールも、尊厳のあり方も、全部違う状況下に生きてきた人間同士が、

それぞれが重ねてきた人生のピラミッドの先っちょの部分で、偶然にもコミュニケーションを取り合っている。

 

そんな奇跡のような関係性の中で、

自分の当たり前を押し付け、期待し、絶望すること自体、そもそも笑っちゃうようなことなのかもしれない。

 

自分が頑なに握りしめていた当たり前を一旦全て手放して、とにかく自然に任せてみる。

1年を経て気づいたのは本当にシンプルなことで、そう考えたら気分がすごく楽になりました。

 

 

 

 

 

そういえば、つい最近日本から遊びにきた友人と、最後の夜、朝の4時まで話込んでいました。

彼女は、人にも物事にもどんなものにも、プラスとマイナスが絶対にあって、

それを全部合わせたらけっきょくプラマイゼロだ、というようなことを言ってました。

 

 

ここに来て、一見マイナスだと思えるような出来事にずいぶん凹みモヤ付いていた私でしたが、

あちこちに振り回される自分の感情を一回横へ置いておいて、

一つの物事からずっと下がって鳥瞰的に、俯瞰的にみてみると、

プラスに思える出来事もマイナスに思える出来事も、あって当たり前で、

今現在起きている最悪だと思えることも、

いい側面も必ずあって、けっきょくはゼロなのかもしれません。

 

そしてゼロというのは「無い」という意味ではなく、経験に培われた大きな「有」の中の0なのかなと。

 

 

 

 

 

次の一年もこの国と手をつないで、

ピラミッドの頂点で関わりあう人に敬意を持ちながら、

自分のできることを粛々と続けたい。