自分史を振り返ってみて、最初の正解と言える大きな決断だったのは写真を選択したことだと思う。
きっかけは高校生の時に、亡き祖父が遺した一眼レフを使い始めたこと。この意図せぬ写真との出会いがあったことで、自分の人生は随分といい方向へシフトしたような気がしている。今考えてみると、わたしのことを可愛がってくれた祖父が遺してくれたギフトなのかな、なんて思う。
これまでいろんな人に成長させていただいた自分にとっては、
生きていく上で、できるだけいい人間関係を構築していくというのは、とても大事なポイントだと思っている。
写真を撮る時は、褒めて褒めて褒めまくるし(これはわざとではなく、本音で褒めてます)、
そもそも撮ってる時は被写体に惚れてしまってるし、
自分が思う以上に自分を(もしくは自分が生み出した作品・商品・料理・空間・子供を)素敵に撮ってもらえて、嫌な気持ちになる人は少ないと思う。
だからなのか、写真を介して出会った人・モノ・コトとはイイ関係を築けていることが多い。
様々な人やコトとの関係性をスムーズにする潤滑油が自分が選択した仕事だったなんて、なんてラッキー!(頭の中がお花畑ですいません)でも心底この選択が正解だったと思っている。
写真を初めてかれこれ15年。時が経つのは早い。よくもまぁこんなに飽きないものだと自分でも思う。
撮影中は被写体に惚れながら、ご多分にもれず、いいねー!いいねー!(よくプロカメラマンが真似される時のあれ)と言いながら撮ってしまうのだけれど、
最初は単純に目の色がきれいとか、髪がさらさらしてるとか、この人正面より横顔がいいぞとか、笑顔がチャーミングとか、そういう外見にグッとくるのだと思っていた。
しかし心のどっかでやっぱそれだけじゃないぞ、自分はもっとその奥にある「何か」を引っ張ってこないといけないんだ、と思い始めたのは7年くらい前。
それはもう完全に理由なんてないフワッとした「なんとなく」な感覚だったのだけど、心のどこかでこのコンセプトを抱きながら撮影に挑む内、だんだん何となくなんかではなくなってきて、必ずその何かはある、という感覚を得ていた。
だって実際に雑誌に出てくるモデルさんたちみたいに整った顔立ちじゃない人でも、ビール腹のおじさんでも、ぽっちゃり型の彼女でも、しわくちゃのじーちゃんでも、ファインダーを通すと、おぉカッコイイ!って思ってる自分がいて、
それって、上記のような外的要因だけじゃないのは明確で、じゃあその理由ってなんだろって考えてみる。自分が引っ張り出したかった「何か」ってなにか?と。
たぶん人生のほとんどのことに言えることだろうけど、正解はない。
それを踏まえた上であえて、今現在の自分の暫定的な答えを書いてみたいと思う。
被写体にはそれぞれが全然違う、底の方から出てくる輝きみたいなのがある。
それはなぜかというと、人間それぞれが神様だから。
は?人間が神様?何言ってんの?と思われる方もいるだろうと思う。
しかし昔から日本で続く神道は森羅万象に神が宿ると考えてきた。いわゆる八百万の神というやつだ。
水にも、石にも、火にも、神が宿ると言われる神道だけど、わたしは昔からその考えにすごく共鳴する。
他の宗教論は聞いてもあんまりわからないことが多いけど、
自然の中に身を置いた時に感じる生き物の息吹というやつを体感すると、八百万の神々はいらっしゃるな。と思うからである。
そして八百万の神々は、人間自身でもあると思う。
それぞれ生まれてきた役割があるんだなと感じずにはいられないほどに、それぞれが違って、そしてその差がイイのである。
個性がちゃんと出てきている人は、本当にすてき。それは目立つとか派手とかそういうもんじゃなくて、その人の個性がちゃんと生きてる状態。
それは商品にも言える事だと思うし、例えばSNSなんかの記事にも言えると思う。
金太郎飴的だったり杓子定規的なものには、感動しない。やっぱり本音が宿っているものに惹かれる。
ちなみにこれまで写真観として、写真に命を取り込む、目に見えないものをうつす、といった曖昧な言葉でしか言い表せていなかった抽象的な表現を、
そうか、その何かとは神だったのか!と思い至らせてくれたのはこの本との出会い。
神社ノート(羽賀ヒカル著)
この本はわたしの大好きで超絶尊敬するお二人、食育カウンセラーを育てていらっしゃる石原奈津子さんと、サンボープレイクック遺跡群とその周辺を盛り上げる吉川舞さんが勧めてくださったから。
大好きなお二人に奇遇にも別々のタイミングで進められたことで出会うことができた、昔からスピ好きな私には大ヒットな本でした。よければぜひ読んでみてください。
奈津子さんの会社、おいしいハート
舞さんの会社、Napura works.
写真やってきて、これからも今まで通りに続けたいと思っているけど、もちろん自分も進化しているわけで。
パッと見オシャレにカッコよく撮れちゃうというのは、それはいい技であるわけだけど、
これからの自分の仕事としてバージョンアップさせていくとしたら、
被写体本人すらも気づいていない、表層のその奥に生きづいてる神様の輝きや美しさを引張ってくることなんだろうと。
そしてそれって自分自身も神なんだと認識すること。
神は唯一神なんではなく、まさに一万、十万、百万といるんだと。そう認識してそれぞれをリスペストし、違いを良さとして取り入れることなんだと思う。
そんなことを念頭に置きながら、写真生活をこれからも発展させていこうかなと。
写真はきっと、自分のベースになるもの。
だけど、極端に言うとそれがどんな風に転換されていってもいいかなと思っている。
どんな方向にこのベースを生かしていけるか、楽しんでやっていくのだ。
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